帰郷

囲碁。
19×19の盤面上に交互に石を置く遊戯。
その歴史は1000年を越え、今も多くの人に楽しまれている。
囲碁を打つ者は棋士と呼ばれ、その中でも高い実力を持ち職業とする者をプロ棋士と言う。
プロ棋士になるためには育成団体に実力を認められてて院生となり、更に入団試験に合格する必要がある。
その道のりの厳しさは、プロ野球やサッカーと同じくらい厳しい。

プロ棋士の卵、院生。
その第一歩を踏みしめることすら容易ではない。
院生志願者には14歳以下という年齢制限があり、それまでに実力を認められる必要がある。
私もプロ棋士を目指す一人だった。
プロ棋士になるため、碁を打ち続ける日々。
厳しい戦いの末に、私は負けてあの子は勝った。
2016年6月 福沢市
ここは県庁所在地ではないが県内最大の商業都市であり、人口は県庁所在地を上回る。
また、県庁所在地ではないが国立大学や競馬場があることでも知られている。
主要駅には特急が止まるほか、ここを始点とする私鉄「福沢鉄道」がある。

その日、私は福沢駅にいた。
もっとも、この駅にいるのはいつものことだ。
高校の頃から福鉄で通学していたし、今もバイト先に行くのに使っている。
ただ、その日はバイトもなく、かといって家にいるのも暇。
定期で福沢駅まで来たが、バイト代が入る直前で金もない。

駅ビルで買い物をする気も起きず、私は特急の来る本線の方の改札前へ来ていた。
福鉄線と比べて、こちらは本数は少ない。
だいたい1時間に1本の普通列車と、1日に数本特急が止まるくらい。
もっとも、対する福鉄も、ラッシュ時を除けば毎時2〜3本程度なのだが。
そんな訳で、改札前といっても人はそう多くない。
毎時2回、電車が来た時のみ賑やかになり、またすぐに静かになる。
その繰り返しは穏やかな海の波のようだった。

いつものように、電車の入線とともに賑やかになる駅。
改札を出た人々の中に、見覚えのある姿がいた。
忘れたくても忘れられない、あの顔と声。
あの子も私のことに気づいたらしく、先に話しかけてきたのはあの子の方だった。
??? 久々じゃない、真白ちゃん
真白 その声は……算子?


十文字算子。
そこらの男性よりも高い身長。
今時珍しい、普段から着物を着た女性。
その着丈は短く、ミニスカートのように短い裾。
すらりと伸びた足にニーハイソックス。
昔から変わらない、彼女の普段着。

忘れたくても忘れられない持ち主だが、算子とは仲が良かったわけではない。
むしろその逆で、ライバル同士ともいえる関係だった。
かつて盤上でいくつもの激戦を繰り広げた、因縁の相手。
忘れたくても、忘れられるわけがない。
真白 算子、どうしてあんたがここに?
算子 中学の時の同級生の結婚式で帰ってきたのよ。こっちに戻ってきたついでに実家にも顔を出そうと思って。ちょっとした帰郷ってところね。
真白 ……そう。
算子 懐かしいわね、真白ちゃんもこの駅も。
算子 ねぇ、せっかくだしちょっと付き合ってもらえないかしら?久々にこの街で楽しんでみたいの。
真白 ……私も暇だったし、手持ちの金は少ないけどそれでもよかったら。
算子 それじゃ、きまりね!

福沢駅前 某カフェ
真白 こんな時、地元の喫茶店とか知っていればよかったんでしょうね。
算子 あら、全国チェーンだって安心感があっていいじゃないの。
たぶんこの街にも喫茶店はあるのだろうが、真白が知ってる店は無い。
焼きそばが名物の食堂やラーメン屋などは知っているが、喫茶店は縁がないためか店を知らなかった。
算子 あたしが院生になってからしばらく会ってなかったけど、調子はどう?
真白 どうもこうもないわよ。今でこそ普通にバイトしてるけどね……。
プロ棋士への夢が断たれた後のことは思い出したくない。
荒れ狂う日々、喧嘩続きの毎日。
気がついたときには、もうまともな進学先は残ってない。
高校で辛うじて持ち直したものの、今もなお血に飢えた獣の面が出そうになる。
真白 ……と、ざっとこんな感じね。
算子 ふーん、真白ちゃんって文武両道な武闘派美少女になったのね。
真白 まず美少女という点から否定するわ。飲酒可能な年齢で美”少女”は無いわね。
算子 ふふっ、20歳以上が美少女じゃないなら、あたしももう美少女じゃないわね。
真白 で、アンタの調子はどうなのよ。囲碁の棋士にはなれたの?
算子 あたしも似たようなものよ。院生にはなれたものの、その後は実力が伸びずプロ棋士にはなれず仕舞。

算子 あたしの住んでたアパートの近くには競馬場があってね、気晴らしに行って見たのよ。
真白 競馬場……?まさか囲碁に嫌気がさして、ギャンブルにでものめり込んだの?
算子 正解。最初に買った馬券が当たったのがきっかけね。
あたしは勝負事に強いのもあって、いい感じに儲かっていったわ。
真白 あんたの勝負事の強さは認めるわ。重要な局面でいつも負けさせられた者としてね。
……それにしても、競馬で儲かる人っているのね。
算子 この街にも競馬場あるでしょ?結婚式の次の日にレースがあるから、一緒に行ってみない?
真白 残念ね。私は素行や性格は悪くても、ギャンブルには興味はないわ。
算子 別に馬券を買わなくても、馬が走る姿を見るだけでも楽しいわよ。それとも、馬並みのアレの方が興味あるかしら?
真白 ……ありませんっ!!

福沢市中央商店街 きものの十文字
算子 ただいま。
算子の父 よう!久しぶりに帰ってきたか!
私たちは算子の実家である着物店に来ていた。
久々の家族団欒の間に部外者の私がいるのもどうかと思うが、幸いここは着物店。 ただの買い物客になりきることで、家族団欒に水を差すことを避けられた。
再会した家族へのあいさつを済ませたのちに、私は算子の部屋に招かれた。
算子の部屋
算子 この部屋に帰ってくるのも久々ね。
そう言って部屋の中を見渡す。
必要なものは都会のアパートに移した。
部屋に残るは思い出の品くらい。
算子 ところで真白ちゃん、今も囲碁をやってる?
真白 最近はリバーシの方が好きね。
リバーシのプロは無いみたいだし、趣味の範囲を越えないけど。
算子 ふーん、それで実力はどうなのよ?
真白 去年、湯豆温泉でリバーシ大会があってね、第2回大会で優勝したくらい。
算子 やるじゃない!大会で優勝するなんてすごいじゃないの!
真白 少し前の私なら自慢してたでしょうけどね。そこまでハイレベルな戦いでもなかったし、第1回では準優勝だから大したことないわよ。
算子 あたしはリバーシなんて10年はやってないわね。囲碁一筋十数年の人生よ。
そう言って、算子は部屋の棚から何かを見つけた。
算子の手にあるのは、使い込んだ碁盤と碁石。
中学時代、都会に行く前まで使用していた囲碁のセットだった。
算子 ねえ、久々に勝負してみない?
真白 ……久々の囲碁もいいわね。一勝負しようじゃないの。
算子 そうこなくっちゃ♪

1時間後
算子 正座すると、真白ちゃんのスカートの中身が見えそうでドキドキするわね。
真白 うるさい。アンタだって大概でしょ。
算子 真白ちゃんの短いスカートの中が気になって、集中できないじゃないの。もしかして狙ってやった?
真白 やってません!大体、そんな方法で勝っても嬉しくないでしょ!
勝負後の盤面は、真白の敗北を示していた。
真白の下着が気になって集中出来ない中での、算子の勝利。
双方ハイレベルな戦いではあったが、算子の強さには敵わなかった。
算子 実際には足を閉じていればパンツが見えることはないでしょうし、そもそもスカートの中が暗くて見えないでしょうけどね。
むしろ真白ちゃんの白くてむっちりしたふとももの方が欲情的……
真白 からかうのもいい加減にしなさい!!
だいたい、同性のパンツや脚に欲情するなんてどうかしてるわよ。
算子 どうする?もう一度勝負してみる?
真白ちゃんがスカートを脱げばハンデとしては丁度いいんじゃないの?
真白 やりません。
そんなことしたら、こっちが寒さで集中出来ないでしょ。
大体、ハンデとして負けた側が脱ぐなんてまるで脱衣囲碁じゃないの。
算子 脱衣囲碁……いいわね、それ。
今度から私も負けたら一枚脱ぐわね。
真白 ……算子。これ以上ふざけたことを言うと、私が血に飢えた獣になるからやめなさい。

その後、真白と算子の対局は3回ほど行われた。
算子との再戦の末、1勝3敗で私は負けた。
それでも、この一勝が無ければ。
私は算子をボコボコにしてたかもしれない。
私はまだ人間だ。人間として最低限の倫理と理性を持ち合わせている。

数日後
算子の友人の結婚式も終わった。
真白は算子に誘われて、競馬場に来ていた。
競馬には興味はなかったが、先日の囲碁で二連敗しかこともあり断れなかった。
競馬場はかなりの混雑だった。
真白 競馬ファンというとおじさんが多いイメージがあったけど、案外そうでもないのね。
算子 これでも都会の競馬場よりは少ないけどね。
算子 せっかくだし、真白ちゃんも馬券を買ってみる?100円くらいなら負けても大した痛手じゃないでしょ?
真白 ……買いません。
大体、出場馬もわからない状況で賭けても、当たるはずないでしょ。
算子 それならあたしの予想を聞いてみる?情報料1000円貰うけど。
真白 ……払いません。
算子 今なら真白ちゃんのパンツを見せてもらえれば、タダで教えるわ。
真白 いい加減にして。私はそんなに安い女じゃないから。

結局、算子に根負けして馬券を買うことにした。
100円の馬券を12レース分買っても1200円程度。
休日の暇つぶしなら、これくらいの出費は許容範囲かもしれない。
予想も何もなく、単勝と複勝の違いもわからないまま適当に買った馬券が当たるはずもないが。

算子 11レースまで終わったけど、調子はどう?
真白 適当に買った馬券が当たるわけないでしょ。アンタの方はどうなのよ。
算子 ここまで8レース的中。だいたい7万円くらいは儲かってるわね。
真白 真面目に働いてきた私の生活って何だったのかしらね。
算子 12レース、真白ちゃんは4-6と予想したのね。
当てれば76倍のギャンブルに挑むなんても、真白ちゃんも結構積極的に攻めるタイプなのね。
真白 それは操作ミスで買ったもの。
76倍のオッズとか、当たるわけないでしょ。
算子 そうでもないわよ。下手な予想よりは適当に選ぶ方が上手くいくこともあるし、100倍の大穴が当たることもよくあることよ。
真白 ……はいはい、そうですか。

最終レース終了後
算子 やるじゃない!76倍の大穴を当てるなんて。
真白 何?自分の予想が外れたから妬んでるの?
算子 真白ちゃんは素直じゃないわね。
あたしは真白ちゃんの予想が当たったのが嬉しいのよ。
真白 ……そう。
算子 この7600円はどうするの?
何か欲しいものを買う?貯金?そ・れ・と・も……?
真白 別になんでもいいでしょ。
所詮はあぶくぜに、どうせロクな使い道にならないまま消えるでしょうね。
算子 真白ちゃんは素直じゃないわね。
あたしは真白ちゃんの予想が当たったのが嬉しいのよ。
真白 ……そう。
算子 あたしも7万円の泡銭があるけどね。
真白ちゃんの脱ぎたてパンツを何枚買えるかしらね
真白 ……それ以上パンツの話題をしてみなさい。
今すぐにでも血に飢えた獣になってアンタをボコボコにするわよ。
算子 夜、獣になった真白ちゃんに襲われるってのもいいわね。このあたりのホテルは……
真白 ……はあ、帰りたい。

翌日の夜
算子 夜に真白ちゃんから電話なんて、珍しいわね。
真白 算子、明日帰るのよね。
算子 ええ。
元々は帰りは夜行バスのつもりだったんだけどね。
母が『女の子が一人で夜行バスなんて危険』なんて言うから、そのまま特急券を買ったのよ。
迎えにでも来てくれるの?
真白 残念ね、明日はバイトがあるからお見送りは無理よ。
算子 真白ちゃん、あたしと別れるのが寂しい?
真白 ……別に。そんなわけないじゃない。
むしろ変態と化したかつての宿敵ライバルと離れられて、スッキリするくらいよ。
算子 そんなツンデレみたいなこと言っちゃって。
本当は寂しいんでしょ?
だから電話してきたのよね?
真白 ……。
算子 でもさ、案外すぐに会えるんじゃない?
行こうと思えばすぐに行けるんだから。
真白 ……そうね。
今度都会の方に行くときは、道案内を頼むかもしれないわね。
算子 ふふっ。その時を楽しみにしてるわね

算子からの電話が切れた。
スマホを充電器に差し込むと、すぐに下着姿のままベッドに横たわる。
何だかんだあっても、算子のことは友人だ。
例え囲碁の実力では到底敵わなくても、私の人生が壊れた原因だとしても。
口を開けばセクハラ発言ばかりするような奴でも……。

……。
た、たぶん、算子は友人だ。









2016年 7月 福沢駅
真白 ……算子?
算子 戻って、きちゃった。
1ヶ月後、算子は戻ってきた。
私が都会に行って、算子に道案内を頼むこともなく、福沢に帰ってきた。
各種荷物、色々と抱えて。
算子 あれから色々考えたのよね。
あたしが都会で一人暮らしするのが寂しくなったというか、人恋しくなったというか
算子 それで、実家に戻ってこっちで暮らそうかなって、ね。
真白 ……そう。

都会から帰ってきたかつての宿敵を見て、私はいささかの不安を感じていた。
私は算子のことをどうとも思っていないのに。
算子は私に恋心を抱いている。
それでも、宿敵でいられるだろうか。

end..